日本バレエ発祥の地 鎌倉・七里ヶ浜の旧パブロワ記念館

<現在は建物内部の公開はされておりません。個人様のお宅となっておりますのでご配慮の上、ご訪問下さい>

 わが国のバレエは大正元年に帝国劇場歌劇部の教師として招聘されたジョバンニ・ヴィットリオ・ローシーによってその第一歩が刻まれたとされています。
 ローシーは歌劇部第一期生を相手にクラシック・バレエのレッスンを施しますが、何故かこの一期生たちの多くはクラシック・バレエの道にもオペラの道にも進まず、当時ドイツで興隆したノイエ・タンツの影響を受け、モダン・ダンスの道を選びます。石井獏、高田せい子、高田雅夫、沢モリノといった人々です。

 
やがてローシー自身も僅か7年ほどで日本を去り、わが国バレエの歩みはいったん途切れてしまいそうになります。
 その後、バレエ・リュッスを離れたアンナ・パヴロワ一座の来日公演(大正11年:1922)を機にわが国におけるバレエに対する関心は急速に高まりますが、バレエ教師と呼べる人材がまだ国内には存在しませんでした。
 が、その少し前、同じパブロワの姓を持つロシア人女性が革命の難を逃がれてわが国にたどり着いていました。エリアナ・パブロワがその人です。来日の時期については大正8年とも9年とも言われてはっきりしていません。妹のナテジタ、母のナタリアと女だけの逃避行でした。

 
彼女はロシアでクラシック・バレエの訓練を受けていましたが、当時はまだバレエを習おうと思い立つ人など皆無であり、当初は横浜で細々と社交ダンスを教えて生計を立てていたと伝わります。 しかしアンナ・パブロワ一座の成功も手伝って徐々にバレエを習いたいと希望する人々も現れ始め、昭和2年(1927)に鎌倉七里ヶ浜にわが国初の稽古場を開き、妹のナテジタ・パブロワと共にクラシック・バレエを本格的に教授し始めます。そんなパブロワの片腕となったのが日本バレエ協会初代会長服部智恵子でした。服部智恵子は貿易商の父についてロシアで少女時代を過ごし、その地でクラシック・バレエを学んでいました。服部家も革命の余波を受けて日本に引き上げざるを得なかったのですが、パブロワは日本人でバレエを既に学んでいる希な存在の服部智恵子を助教師として採用し、以後彼女はパブロワの教室、ならびにこの教室の生徒達を団員としたわが国初のバレエ団、エリアナ・パブロワ舞踊団の中心的存在として活躍します。

 しかし戦争の暗雲たれこめる昭和も10年代に入ると敵性文化と目されたバレエ団活動は次第に舞台を制限されはじめ、やがてバレエ団は所謂慰問公演に駆り出されるようになり、パブロワは日本軍慰問公演先の南京で昭和16年、他界してしまいます。享年42才、後年にはわが国に帰化して霧島エリ子と名乗っていました。 
 このパブロワの稽古場から上記服部智恵子のほか東勇作、橘秋子、貝谷八百子、近藤玲子、大滝愛子、 日本バレエ協会第2代会長・島田廣といったわが国バレエ界の初期を飾った人々が輩出されます。
 まさに七里ガ浜のパブロワの稽古場はわが国バレエ発祥の地であり、エリアナ・パブロワの来日とこのスタジオのオープンがなければ、わが国バレエの芽吹きは更に10年後、すなわち昭和11年のオリガ・サファイアの来日を待たなければならなかったかもしれません。
 エリアナ・パブロワの没後、七里ヶ浜の稽古場は妹のナテジタ・パブロワが引き継いだものの時代はバレエなど全く許さぬ太平洋戦争時代に突入し、苦難の時代を経て戦後ようやくわが国に本格的なクラシック・バレエ興隆の時代が到来します。しかしそれはパブロワのバレエ教室にとって必ずしも幸いばかりはもたらしませんでした。人口稠密の首都圏に続々と日本人経営によるバレエ団、バレエ教室が開設され、ナテジタの教室は近隣に住む限られた数の生徒達のみを相手にせざるを得ませんでした。ナテジタは東京へ出張教授も行いましたが諸物価の高騰はそれで賄うには程遠く、老朽化が進んだ稽古場の建て直しもかないませんでしたが、彼女は最後までバレエ教育に心血を注ぎ続けました。
 生涯独身を通したナテジタは昭和57年(1982)、波乱に満ちたその生涯を閉じました。彼女の死と同時に稽古場の借地権は消滅し、このわが国最古の歴史を持つ稽古場は閉鎖を余儀なくされます。エリアナ、そしてナテジタの門下生達は募金を募り、更には訴訟まで起こして何とかこの建物を保存しようと努めますが、時はバブル前奏曲時代の事、評価額数億にも高騰したこの物件を買い取る事はかなわず、稽古場前面に顕彰碑を建てるにとどまりました。(註)
 しかし紆余曲折を経た後、多くのバレエ関係者、鎌倉市、さらには演劇・舞踊評論家白浜研一郎らの尽力もあってこのわが国バレエ界にとって記念すべき稽古場はパブロワ記念館として一般公開されるに至ります。

 
旧稽古場の南欧風建築の面影を残して補修された建物(斜面に建てられていたために外観上2階に見える部分が稽古場:規模は旧稽古場の半分以下;最上部写真参照)の中に、わが国バレエの黎明期の数多くの想い出を展示したこの記念館は、その後当時を偲ぶバレエ関係者、そしてその数十倍、数百倍、否数千倍する将来のバレリーナを夢見る少女達やバレエ・ファンを永らく迎え入れて来ましたが、残念ながら平成8年、諸般事由により閉館の憂き目を見てしまいました。
 現在旧稽古場建物の正面に「日本バレエ発祥の地」のメモリアル・プレートと顕彰碑のみが静かに人々の来訪を待ち受けておりますが、今や世界に互するまでに成長したわが国バレエの第一歩がこの地から歩み出された事を思う時、改めてパブロワ館閉館には一抹の寂しさを禁じえません。 (文中敬称略) 文:小林秀穂

註:この間の事情は白浜研一郎氏の労作「七里ヶ浜のパヴロバ館」(文園社刊:昭和61年)に詳しい。

JR鎌倉駅もしくはJR/小田急線藤沢駅より江ノ電にて「七里ヶ浜」駅下車、海沿い道路に出て右折:徒歩5分



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