日本バレエ界に忘れえぬ足跡を印した人々

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没年順掲載・文中敬称略
橘 秋子 <1907:明治40年−1971:昭和46年> 

 
栃木県立師範学校(現宇都宮大学)卒業の後、小学校教師をしていた時にエリアナ・パヴロワ・バレエ団公演を観て感銘を受け、1930年(大正5年)、その門を叩く。
 32年には早くも独立して自らのカンパニーを立ち上げるが戦局が思う活動を許さず、戦後はもっぱらバレエ教育に専心。1950年(昭和25年)に東京都公認橘バレエ学園を設立、愛娘牧阿佐美、大原永子、森下洋子、岡本佳津子、早川恵美子等、戦後我が国を代表するダンサーを続々と育て上げた。それら優秀な人材を持って橘バレエ団(現牧阿佐美バレエ団)を59年に結成、海外バレエ団との交流による本格的な古典作品公演を行うのみならず精力的に創作作品を発表、「運命」(51年)、「飛鳥物語」(57年)、「四季」(63年)、「角兵衛獅子」(63年)等の傑作を数多く生んだ。
 それら功績に対し芸術選奨文部大臣賞(60年)、東京新聞舞踊芸術賞(63年)、舞踊ペンクラブ特別賞(64年)、芸術祭奨励賞(67年)、紫綬褒章(67年)等、数々の栄誉が授けられ、その逝去に伴い勲四等宝冠賞を叙勲され、従五位に叙せられた。
 その名は橘バレエ学校、橘秋子賞として今日に残り、戦後我が国バレエ界に記した多大な足跡を今日に伝える。



東 勇作 <1910:明治43年−1971:昭和46年>

 
12歳の時、横浜でアンナ・パヴロワ・バレエ団来日公演を観て感銘を受け、1930年(大正5年)、七里が浜のエリアナ・パヴロワ・スクールの門を叩く。
 しかし学習欲旺盛な東は次第にエリアナの教えだけでは物足りなくなり、独学で書物を頼りに、またフランス帰りの蘆原英了(下段参照)の伝聞をもとにバレエの技術的大系を自ら組み上げてやがて独立、日劇を本拠に舞台活動を展開、オリガ・サファイアのパートナーも務める。また自らの稽古場も開いてその門下には松尾明美、松山樹子、薄井憲二らが学んだ。
 東のバレエに対する情熱を物語る有名なエピソードに1941年(昭和16年)の「ジゼル幻想」公演がある。
東は本番舞台など見たこともない「ジゼル」を、本を頼りに組み上げてしまったのである。無論、オリジナルの「ジゼル」とは音楽も振りも随所で異なるものであったが、真にジゼルの魂を表現した舞台として今に語り継がれている。
 戦後は東京バレエ団による「白鳥の湖」公演で主役を踊るなどしたが、やがて表舞台のバレエ界から一歩身を退き、ひたすら益々厳しさを増した学究的態度で舞踊芸術探求にその生涯を捧げた。


蘆原 英了 <1907:明治40年−1981:昭和56年>

 シャンソン、演劇、バレエ評論家
 自ら踊る人ではなかったが戦後我が国バレエの振興発展に多大な側面的貢献を果たしたパトロンとしてここに挙げる。
 父は軍医、弟は著名な建築家蘆原義信、母方の従兄に小山内薫、叔父に藤田嗣冶という学問・芸術的家庭に育ち、慶応義塾大学仏文科を卒業の後、フランス留学、帰国の後は脚本家、評論家として活躍。バレエ関係の著書を多数上梓して昭和20年代から40年代にかけてはバレエ評論家の第一人者として活躍した。毎日出版文化賞等受賞。
 特に戦後の我が国バレエ復興に果たした役割は大きく、戦後すぐの東京バレエ団結成時にはブレインとしての役割を果した。また東京バレエ団による「白鳥の湖」公演の舞台装置を藤田嗣冶が手掛けたのは、まさに蘆原の縁故あっての故の奇跡であった。



服部智恵子 <1908:明治41年 − 1984:昭和59年>

 貿易商だった父に従いハバロフスクで少女時代を過ごし、同地でバレエを学ぶ。恐らく本格的なバレエ教育を海外で受けた最初の日本女性であろうと思われる。
 帰国の後、横浜七里が浜のエリアナ・パヴロワのスクールに参加し、助教師として同校の運営に携わると同時にエリアナ・パヴロワ・バレエ団の一員として活躍。後に同校門下の島田廣と結婚、服部・島田バレエ団を結成して戦前の我が国バレエ界で中心的役割を果たした。
 終戦直後に小牧正英、東勇作、島田廣、貝谷八百子らと東京バレエ団立ち上げに参画し、戦後我が国バレエの復興に尽力するが後に服部・島田バレエ団を再始動させた。
 昭和40年の服部・島田バレエ団活動休止後は渡仏し、パリ芸術座バレエ団に参加してヨーロッパ、南米、中近東各地を公演旅行、44年に帰国。
 また昭和33年の日本バレエ協会設立にも尽力し、昭和49年の日本バレエ協会法人化に伴い初代会長に就任。更に第二国立劇場(現在の新国立劇場)設立準備委員会委員等を務めたが、1984年急逝。その功績を称え、日本バレエ協会では「服部智恵子賞」を制定。

貝谷八百子  <1921:大正10年 - 1991:平成3年>

 福岡県出身。上京の後、14才の時に当時東京の蚕糸会館にも教室を開いていたエリアナ・パブロバに師事、1938年には自らの貝谷八百子バレエ研究所及び貝谷八百子バレエ団創立し、歌舞伎座にて第1回リサイタルを開いて話題を集めた。戦後すぐの東京バレエ団結成に参加し、「白鳥の湖」に主演。東京バレエ団解散の後は貝谷バレエ団主宰として「シンデレラ」(歌舞伎座)、 「くるみ割り人形」(帝国劇場)、 「ロミオとジュリエット」(大阪産経ホール)、「海賊」(文京公会堂)などを独自の解釈に基づいて本邦初演している。
 また創作分野でも数多くの作品を発表し、単なる西欧古典作品の再現の域を脱し、独自のバレエ世界を創造し続けた。また貝谷芸術学院<後芸術専門学校>を創設し、総合的な児童教育にも情熱を傾けた。長年、日本バレエ協会副会長も務める。
 芸術祭賞、東京新聞舞踊賞、芸団協功労賞、橘秋子賞受賞、紫綬褒賞、勲四等宝冠賞など受賞。
       

 
小牧 正英 <1908:大正3年 - 2006:平成18年>

 昭和6年、画家を志してユーラシア大陸を横断してパリを目指し大陸に密航したが、ハルビンで検挙されたものの、たまたま眼にしたロシア人経営のバレエ学校に飛び込み、そこで優れた身体能力をかわれて本来ロシア人にしか許されなかった入学を許可され、昭和12年の卒業公演ではくるみ割り人形の王子を踊る程に卓越した才能を見せた。
 昭和15年、当時アジア巡業中のモスクワ青年バレエ団に参加、戦争のためこのバレエ団は上海に定着したため(上海バレエ・リュッス)、小牧も上海にて終戦までの6年間を踊り続ける事になる。ここで小牧は白鳥の湖、眠れる森の美女、ドン・キホーテ、ジゼルなど古典作品からペトルーシュカ、シェヘラザード、イーゴリ公、火の鳥など近代作品まで幅広く踊る事になる。
 昭和21年に帰国するとすぐに東京バレエ団結成に中心的役割を果たし、「白鳥の湖」我が国初演を見事に成功させた。
 同団の解散の後は小牧バレエ団を率いて数多くの作品を発表、また海外バレエ団との交流にも積極的に取り組み、更に彼の稽古場では谷桃子、大滝愛子、有馬五郎、横山はるひ、笹本公江、太刀川瑠璃子、小川亜矢子、由井カナコ、岡本佳津子、星野安子、春山信子、関直人、横井茂など戦後我が国バレエ界を代表する人材が育てられ、名実共に戦後我が国バレエ界を代表する巨人であった。
 尚、一水会会員として画家としての横顔も持っていた。




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