日本バレエ界に忘れえぬ足跡を印した人々
<外国人編>
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ジョヴァン二・ヴィットリオ・ローシー <1870?− 没年不詳>

 大正元年(1912年)、旧帝国劇場歌劇部(後に洋劇部)教師として来日、日本で始めてダンス・クラシック(バレエ)技法を教授した人物として知られる。
 ローシーはイタリアに生まれ、エンリコ・チェケッティに師事したとされるが委細不明。ミラノ・スカラ座バレエ団等で踊った後、ロンドンでオペレッタの振付を行っている所をスカウトされて来日。但し帝劇は本格的なバレエ興行を企図してローシーを招聘した訳ではなく、あくまでもオペラ(オペレッタ)興行が目的とするところであったが、とにもかくにもローシーは六尺棒を振るって帝劇歌劇部部員相手にバレエの指導を始めた。当時のオペラ(オペレッタ)では舞踊が重要な構成要素のひとつであったからである。しかしローシーは当時の日本人のバレエの素養の無さに失望を隠さなかったとも伝えられ、その為か門下に石井獏、高田せい子、高田雅夫沢モリノなど我が国洋舞黎明期を支えた人々があったがいずれもクラシック・バレエの道には進まず、モダン・ダンスの世界に身を投じた。
 結局、帝劇は西洋舞踊、オペレッタ等の余りの客入りの悪さに洋劇部を5年で解散、ローシーは赤坂に自らの小屋を構えてオペレッタの興行に挑むがこちらも不入り続きで行き詰まり、失意の内に大正7年(1919年)離日した。それらはローシーの責任というより当時の我が国に西洋芸能を受け入れる土壌がまだ整っていなかったと理解するべきであろう。



アンナ・パヴロワ <1881−1931>

 帝政ロシア時代のサンクト・ペテルブルグに生まれる。帝室舞踊学校を卒業の後、1906年以降帝室マリィンスキー劇場バレエ団のプリマとして活躍。しかし彼女の不出世の名バレリーナとしての名声があまねく世界に轟くに至ったのは1908年以降、ディアギレフのバレエ・リュッス一座と共に欧米各国を巡業、とりわけ“瀕死の白鳥”など一連のミハイル・フォーキン振付作品の演技で観客を魅了してからである。
 しかしパヴロワは1910年にはディアギレフのもとを離れ、以後自らの一座を結成して数多くの世界巡業を行ったが、その一環として大正11年(1922)年に来日する。
 「パヴロワ婦人露国舞踊劇一座」公演と銘打たれたこの巡業は東京の帝国劇場他、全国8都市で行われたが、パヴロワの名声は我が国にも既に広く伝えられており、当時の平均的サラリーマンの月給にも相当したといわれるチケットは総て完売、大入り満員の盛況であった。
 多くの文化人達がこのパヴロワ公演の衝撃を書き残している(谷崎潤一郎、川端康成、武者小路実篤等)が、それよりもむちろそれまでバレエのバの字も知らなかった我が国一般大衆の間に「バレエ」という西洋舞踊の存在を知らしめた彼女の功績は特筆に価する。
 ローシーの離日によって一度は途切れそうになった我が国バレエの小道は、まさにこのパヴロワ一座の来日によって、新たな展開を見せることになるのだが、それは自らの意思でバレエを志す者の急増という形でまずは現れた。
 そして当時、我が国で本格的にバレエを学べる場所は一箇所しか無かった。エリアナ・パヴロワの教室である。



エリアナ・パヴロワ <1899? ー1941>

 ロシア貴族の娘として生を受け、ロシア革命に追われて母と妹(ナテジタ・パヴロワ)と共に祖国を捨て、上海経由で大正10年(1921年)頃、横浜にたどり着いたと言われる。
 当初、横浜で社交ダンスを教えて生計をたてていたが、数少ない希望者にバレエも教授していたが、アンナ・パヴロワ一座の来日以降、急速に生徒も増え始め、昭和2年(1927年)、鎌倉の七里ガ浜に我が国初のバレエ専門の教室を開設した。
 パヴロワ姉妹には正規の舞踊学校に長年学んだという経歴がある訳ではなかったが、ロシア時代に一流教師についてクラシック・バレエを学び、その技術の確かさには定評があった。
 エリアナは後に門下生達と共にエリアナ・パブロワ・バレエ団を結成、各地を巡業して好評を得たが、時代は戦争の暗雲垂れ込める殺伐とした時代の事、将兵慰問にも駆り出され慰問巡業先の南京で破傷風の為に没した。日本名霧島エリ子。
 その門下からは服部智恵子(助手も務める)、東勇作、橘秋子、島田廣、藤田繁、貝谷八百子、大滝愛子、近藤玲子、松岡みどり等、我が国バレエの第一歩を飾った数多くの人々が輩出され、正に我が国バレエの母と呼ぶに相応しい不滅の足跡を残した。

 エリアナ没後、七里ガ浜のバレエ教室は妹のナデジタによって引き継がれ、更に数多くの後進を育成し続けたが、ナテジタの逝去と共に昭和57年(1982年)閉鎖、現在はその跡地に「日本バレエ発祥の地」の碑が残る。余談ながらエリアナとナデジタは実の姉妹ではないという説もあるが、真偽の程は不明である。


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オリガ・サファイア <1907 - 1981>

 駐ソ連大使館員だった清水威久と結婚して昭和11年(1936年)に来日、レニングラード・バレエ学校(旧帝室舞踊学校)で著名なセミョーノフやロマノフに師事したプロのバレリーナである。本名はオリガ・イワノーヴァ・パヴロワ。日本名清水みどり
 来日の後、当時の日劇ダンシング・チーム(NDT)のバレエ教師に就任、第二次世界大戦を挟んで終生日劇を離れること無く教鞭を取り続けた。
 サファイアは伝統的かつ正統派のロシア(ソ連)産のクラシック・バレエを我が国にもたらした最初の人であり、技術のみならずその理論、さらには我が国では全く確立していなかったバレエ上演のノウハウといったものも我が国に定着させるのに多大な貢献を果した。
 また我が国で彼女が刊行した3冊の著書は、多くのバレエを志す人々に多大な影響を与えた。
 日劇で彼女の教えを受けた者には松山樹子、松尾明美、谷桃子やエリアナ・パヴロワにも師事した東勇作等がおり、その他にも第二次世界大戦後の我が国バレエ・ブームを支えた多くの人々が彼女の影響を受けて育っている。







アレクセイ・ヴァルラーモフ  <1920 - 1991>

 
昭和35年(1960年)、外国人教師を招聘しての我が国初の本格的バレエ学校として開設され、僅か5年で閉校してしまったチャイコフスキー記念東京バレエ学校(林広吉理事長・牛山充校長)に招聘されたロシア人教師。モスクワ・バレエ学校卒業の後、モスクワ・ボリショイ・バレエ団でソリストとして活躍。現役引退の後は指導の他、振付家としても多くの作品を手がける。
 東京バレエ学校は我が国に居ながらにして本格的外国人教師の指導を受けられるということで数多くの現役バレエ団員がその門を叩いた。
 その顔ぶれは谷桃子、松山樹子、太刀川瑠璃子、アベチエ、八代清子、本田世津子、中川弓、木村公香、鈴木光代、薄井憲二、石田種生、関直人、榎本誠ノ介、佐々木忠治、高田止戈、小林恭、小林功、内田道生、有馬五郎、岩田高一、漆原宏樹、佐々保樹、鈴木武、鈴木滝夫などクラシック界の錚々たる顔ぶれのみならず、モダン界からも石井かほる等の人々があり、枚挙に暇が無い。
 わずかの期間ではあったが、彼が我が国バレエ界、特に男性ダンサーに与えた影響には多大なものがある。
 この学校は「チャイコフスキー記念東京バレエ団」名で公演活動も行っていたが、ヴァルラーモフは“まりも”等、同団上演作品の振付にも尽力した。
 尚、この学校は解散に伴ってバレエ団部門<現チャイコフスキー記念東京バレエ団(佐々木忠治代表)>と学校部門<東京バレエ劇場(榎本誠ノ介代表)>に分裂した。



ジャック・カーター <1923 - 1999>

 
イギリス生れのダンサー、振付家。サドラーズ・ウェールズ・バレエ学校で学んだ後、ランバート・バレエ、ロンドン・フェスティバル・バレエ等でダンサーとして活躍の後、フェスティバル・バレエ団等で振付家として古典作品の改定振付から創作作品まで、幅広い才能を発揮した。
 1965年(昭和40年)以降、頻繁に我が国に招かれて多くのバレエ団で振付を担当。舞踊技術的にはレベル・アップしつつあった我が国バレエ界に、本格的な振付術のノウハウをもたらした功績は大きい。
 日本文化に多大な関心を寄せ、日本の音楽や伝統をモチーフにした作品、ツトム・ヤマシタの音楽を用いた作品、我が国ダンサーを主演に据えての新作発表など我が国に所縁ある作品を数多く発表している。
 無類の日本酒好きでも知られたが、1999年12月31日、21世紀を待たずに没。





スラミフ・メッセレル <1908 - 2004>

 
上記アレクセイ・ヴァルラーモフと共に昭和35年、チャイコフスキー記念東京バレエ学校(林広吉理事長・牛山充校長)に招聘されて初来日して以降、我が国バレエの発展のために多大な貢献を果す。

 1926年、モスクワ・ボリショイ・バレエ学校を卒業の後、ボリショイ・バレエ団に入団、49年まで同団を代表するプリマとして活躍、、20代には100メートル競泳ソ連チャンピオンという横顔も持つ。
 現役引退の後は我が国の他、フランス、ドイツ、オーストラリア、アメリカなど世界各国に招かれて振付、後進の育成に当たり、1980年からは英国ロイヤル・バレエ学校客員教授も務める。

 その卓越した指導力と豊かな人間性は、その教えを受けた我が国バレリーナ達に多大な影響を与え、彼女をバレエ人としての心身両面の師として仰ぐ者も数多く、上記東京バレエ学校解散の後も頻繁に我が国に招かれて指導や振付に当たる。
 我が国バレエの発展に尽力した功績は高く評価され、平成8年(1996年)瑞宝章を授章されている。
 ソ連ではスターリン賞(1946年)、ソビエト連邦人民功労芸術家(1962年)等、褒章多数。



ロイ・トヴァイアス <1927 - 2006>

 アメリカ生れのダンサー、振付家。ジョージ・バランチンの愛弟子で、ニューヨーク・シティ・バレエ団のソリストとして活躍。現役時代より頻繁に我が国に招聘されて数多くのバレエ団でバランチン作品の振付指導を行うと共にそのレッスンを通してバランチン・スタイルを我が国に普及させた。
 我が国では「HNKバレエの夕べ」、、小牧バレエ団、ミヤキ・バレエ団他で多くの作品の振付を手がけ、未だに彼の振付作品を常演レパートリーに加えているバレエ団も多く、日本バレエ協会も彼の振付作品を過去に幾つか上演している。

 1980年代からは韓国ユニバーサル・バレエ団芸術監督に就任、韓国バレエ界の発展にも大いに寄与した。



ナタリヤ・ドゥジンスカヤ <1912 - 2003>

 旧ソ連、現ウクライナのハリコフに生れる。母に師事してバレエを始め、レニングラード・バレエ学校(現通称ワガノワ・バレエ学校)にてアグリッピナ・ワガノワに師事。同校を卒業の後、キーロフ・バレエ団に入団、以後第二次世界大戦を挟んでソ連バレエを代表するプリマの一人として活躍。

 現役引退の後はワガノワ・バレエ学校で後進の指導に当たり、数多くの現代ロシア・バレエ界を代表するプリマを輩出した一方、多くの古典作品の改定振付を手がける。キーロフ・バレエ団芸術監督を務めたコンスタンチン・セルゲイエフ夫人としても知られ、夫君没後はセルゲイエフ振付作品の振り写しも行う。
 我が国には正統的ワガノワ・スタイルの後継者/指導者として再三招聘され、指導の他、新国立劇場バレエ団、日本バレエ協会所属バレエ団他で作品振付指導、改訂振付を数多く行う。
 
 ソビエト人民芸術家、ソビエト連邦国家賞、ゴールデン・ボーダー・ライト賞ほか賞暦多数。



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